omoidasu

あのー、なんて言いましたっけあのbjorkの彼氏。
そうそう、マシュー・バーニー
なんか、マシュー・バーニーなんかは、こういうの好きなんじゃないかなって、すごい上から目線なこと思ってしまったりしたわけでして、今回、またしてもblack eyd peasの作品をご紹介しようと思います。

何がって、いったい何から作り始めたのかが知りたい。音に映像をのせて(通常のPVの手段)いたのであればちょっとにわかには信じ難い。かと言って映像が先だったとも考えづらい。
ま、何にせよ、最後に完成させるものは映像と音楽が融合した作品にする、という決まりはあったと思います。
とにかく、構築するとはこういうことでしょう。ちょっと見てみましょう。

野田さんについて

野田総理がいかに立派なヒトか…みたいなことを書こうとしたんだけど、自分のつまらない文章力で軽々しくそういった内容を書くことはすごく恥ずかしいような気がして、止めました。

早く希望なんて見えないようになってほしい。深い悲しみは深い喜びを知ってこそのものだと思いますし、また、深い喜びは深い悲しみを知って初めて手にすることの出来るものだと思います。
そうすると、どうしても希望のようなものを持ってしまうのですが、それがいったいどうしたというのか、なんて考えたりもします。
「期待しない」って、難しい。

りんごのうた

江村さんと話していてなかなか興味深い話題が出たのでそれを少し書き留めておきます。

 自分は相手のためにいるのか
 相手は自分のためにいるのか

というような内容ですが、あなたは一体どちらの立場を取るでしょう。そしてあなたのパートナーは一体どちらの立場を取るでしょう。
どちらも、エゴイズムに結びついていくものですし、往々にして、自らの自覚とは逆だったりするものだと思いますが、どうでしょう。実際の人間性はともかく、パートナー同士が逆の立場を主張し合っているようであれば、その二人は相性良しではないかと思うのですが。
すごく簡単な相性チェックになると思うので、試してみてもらえればと思います。
では、以下の2つの立場は上述したうちの、それぞれどちらに対応するのでしょうか。

 自分が相手を必要としている
 相手が自分を必要としている 




唐突に話は切り替わりますが、椎名林檎の魅力について考えていたのでそれについて。
結局彼女の魅力は「あんなに高級な女が自分の全てを衆目に晒している」ということに帰属すると思いました。
人を判断する基準は世代によって様々に別れると思いますが、彼女は常に「同世代の中で最高の女」であるのではないかと思います。そうすると、自然彼女のファン層も同世代になってくるのであり、齢七十にもなった頃には立派な「伝統芸能」となっているのではないか。そしてそれは彼女の望む道であり、彼女が音楽を制覇した、と自身に確信を持たせるためのものなのだろうと思います。


いつもながら随分と言葉足らずであることは自覚しているのですが、ご容赦下さい。

引越し

昨日、横浜に戻って参りましたかずかです。

で、今日テレビのアンテナ配線をしようと思ったら新居の差込口がずいぶん古いタイプのジャックで、どうしても映らない=つなぎ方が違うんだろうと思ってインターネットで調べてみたら、アナログ放送って終わってたんですね。
本当に、テレビを見ないと社会の流れになかなかついて行き辛いです。

「芸術」ということばはもう古い

と、思い始めました。

サロンが誕生する以前のヨーロッパの絵画作品が「職能」の一種であったとするなら、サロンの登場以降、自由市場にさらされた絵画を芸術ということができるのか。
それならば、現代を生きる「芸術のようなもの」とは一体どのようなものだろう。
思うにそれは芸術的なものであり、また芸能的なものであるのではないか。
そう考えてこそ、今の時代を生きる確かな熱い血を感じることが出来るのです。




最後にキメてるのがtaisukeです。こういう方向性だと日本人の特殊性を生かせるような気がします。

次なる芸術は、モダニズムをも内包したものになるかもしれない。

 岡本太郎の言うところの「芸術」とは、それ自体が驚異でありまた脅威であるというもの(これ自体は岡本太郎の言葉ではなくあくまで筆者の解釈に基づくものなので、正しいのかどうかは自信がありません)でした。そしてまた岡本はモダニズムという大きな勢力に対して、人々の心に安住心を持たせ、積極的な精神の向上を図れるものではない、としました。

 しかし、彼の言う「たしかに時代がゴッホをのり越えて前進してしまった」ということが事実だとしたら、私達はもう岡本を乗り越える時期なのではないでしょうか。

 当時の、前衛芸術よりも歌謡曲浪花節の方が人気があるという事実に対して「おそらく、正直な感想でしょう。こういう考えの人が多いのです。」と発言する岡本。
 今、私達に最もわかりやすい事実として、茶の間の娯楽であるテレビに出演するタレントやアーティスト、ミュージシャンの技術力や、本質的意味での芸術性がどんどんと損なわれているというものがあります。これは時代が彼らを必要としているからであり、またその理由は、時代の進歩による肉体・精神の疲れに因るものだと思います。いつぞや流行語になった「いやし」です。
 心地よいもの、それは自分からあまりにかけ離れることのないもの。
 その時代その時代を生きる人間が、スターを生み出します。そういった意味で美空ひばりは正に、国民の努力と強い思いが作り上げた結晶と言えるスターであり、矢沢永吉は、強いものと強いものがぶつかったときに起きる大きなエネルギー、すなわち端的に言えばあの時代の社会の歪が生み出したスターであると思います。

 なにはともあれ、もし私が芸術の次なる形を提示することが許されるのであれば、それはモダニズムをも内包するものになるかもしれません。私たちの生きる時代はモダニズムを通過し、そして生活にモダニズムが溢れているからです。
 時代を遡ることはできません。モダニズムというものに対する解釈は人それぞれであり、また自分への染み込ませ方もそれぞれです。しかし、話はそれるようですが、現在の音楽ファンたちの新しいものへの興味の持ち方というものは、どうも僕には性に合わないのです。
 どうしてみんなそんなに新しいものを欲するのか。積極的に新しいものを探しに行こうとするのか。まるで新しいものに触れれば触れるほど自分は向上していく、という考えのもとに動いているのではないかとさえ思います。
 正直言って、僕は家にある数百枚のCDと、百枚にも満たないレコードの中で、十分に感動を得ています。なぜなら素晴らしいものはそう簡単にその全てを与えてはくれないからです。自分が向上していかなければ、そのものの「よさ」をわかりっこないからです。故に現状では、多くの新しいものを積極的に求めるような気になれない。
 素晴らしいものは何度触れても素晴らしい。woodstockのsantanaなどは正にそれであり、毎回毎回新鮮な驚きと、それに因る喜びを与えてくれるのです。そしてそのたびに自分の小ささ、愚かさを思い知らされます。しかしだからこそ、小さくて確かな精神の向上を感じることが出来るのも事実です。

 そんな女性に出会いたい。だからぼくは、ものすごく面喰いではあるけれど、その好みは世間で言われる「美人」の類では無いのかも知れません。

唐突ですが、ひとつ気づいたことがあるので書き留めておきます。
煙草と酒を比較したお話です。
 一般的な紙巻のシガレットは、お酒に例えると発泡酒です。
 手巻きタバコは、お酒に例えるとウイスキーバーボンです。
故に、タールやニコチンの含有量が多いことが生命の危険を脅かす度合いの数値に比例するわけではない。

日本人と韓国人

日本人でもあり韓国人でもあるぼくは、こういうものを観ると素直に誇りを持てます。





とはいえ、以下のようなものを目にしてしまうと、素直に白人に対して劣等感を感じているかも知れません。




そして黒人。もう何も言えない。




そしておれは急いで、自分の持ってるneweraのキャップ(中学生にもらったやつ)の上のシールだけ剥がしました。
そしたらもうそこだけ色が違って、悲しかったです。